13. 旋律

おまえは窓辺でヴァイオリンを奏でる

心地よい春の風がおまえの美しい手から音を運んでくる

 

俺は春休みで遊びに来ている“もじゃ毛のチビ”を膝に乗せ

おまえの奏でるモーツァルトに身を任せる

 

俺はその昔、おまえがモーツァルトを弾くたびに

理由も分からない何かもやもやしたものにさいなまれていた

 

…あれは…

 

俺の不注意から王妃さまが落馬し、おまえは俺の命を助けるために

自分の身を捧げてまで国王陛下に裁判を要求してくれた

 

俺のおまえに対する感情が友情から愛情に変わっていったあの頃

 

それまではおまえが何を弾こうが

特に心に留めるものは何もなかったはずなのに

 

おまえのその燐とした佇まいには不釣合いな

穏やかで女性的な旋律をおまえの指が奏でる度に

何故か俺の心はざわついていった

 

その頃のおまえは、少しだけ憂いのある表情を覚えて

そして、俺に何かを悟られないように本心を隠そうとしていた

 

俺はその隠されている本心が何か分からないまま

おまえといつも通りの日々を送り

いつの間にか4年の月日が経っていた

 

あの日、突然このフランスへ戻ってきた貴公子に

おまえは明らかに動揺していた

 

…そして、泣いていた…

 

俺はただ、愛馬のファミーユと一緒に走り去るおまえの姿を見送った

 

屋敷に戻ってきたおまえは

俺の顔を見ることもなく、誰とも言葉を交わさず

部屋に引きこもった

 

そして…おまえの部屋から聞こえてきたモーツァルト

 

ふいに、どこかで見たモーツァルトの肖像画が

あの貴公子に良く似ていたことを思い出す

 

俺は確信した

 

おまえはあの貴公子を想いながら

モーツァルトを弾いていたのだということ

 

そしておまえが俺に隠し通そうとしていた本心が

…この貴公子に対する恋心だったということ…

 

おまえの心に気づいた俺は

その時、何故おまえがその心を隠そうとするのか理解ができなかった

 

巷で噂されていた王妃様と貴公子の恋は到底、叶うはずもない戯言

 

たとえば、俺の想いがおまえに届くくらい

叶うはずもない戯言

 

そんな戯言よりもむしろ

おまえにふさわしいウィーンからきた貴公子

 

嫌味のない実直な貴公子

強く、優しく、限りなく温かい貴公子

 

こんなにもおまえに相応しい男がいただろうか…

 

俺が嫉妬なんてするまでもない

俺にはそんな資格さえもないのだから

 

おまえの想いが叶えばいい

そうすれば俺のおまえに対する儚い思いも何もかも全て諦めがつく…

俺はあの頃、本気でそう思っていた

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「私がモーツァルトを弾く理由?」

 

俺の膝に乗っている“もじゃ毛のチビ”がおまえに聞く

 

「理由…うーん、難しいな」

 

「私の肌に合う…といえば良いのか…」

「弾いているうちに心が整理されていくような…」

「でも…簡単に言えば、弾きやすい…からかな」

 

自分の質問でおばさんが慌てふためくところを期待していたはずのこのチビは

自分にそっくりな人形を抱えながらとてもとてもつまらなそうな顔で俺を見る

 

「すまん、俺もまさかの“弾きやすい”は想定外だった」

「多分、それ以上の答えは出ないと思うよ」

 

小声でチビを諭す

 

「全く、お姉ちゃまはロマンチックとは全く無縁な生き物ね」

「私のカンが外れるなんて…」

 

「カン?それはどういう意味だ」

 

チビが言う

「誰かさんを想いながらモーツァルトを弾いてたって言ってくれると思ってたの」

「でも、弾きやすいって言ったお姉ちゃまのリアルな答えでよく分かったわ」

 

俺の膝から飛び降りて

据わった目で俺を見つめるチビ

 

「全く、つまらない」

「そのまんまじゃないの」

 

…チビ…

おまえは会ったことのない貴公子のことまで分かるのか…

 

いや、たいしたもんだ

俺はこの“もじゃ毛のチビ”の洞察力に感心していた

 

「この鈍感!」

 

突然、俺は脛を思い切りけられる

痛みに悶絶し言葉が出ない

 

その台詞と脛蹴りはおまえのおばさんに対してのものだよな?

くそっ…この…もじゃ毛め…

 

「まあ、いいわ」

「お姉ちゃまもいつか気づくでしょうし…」

 

俺とチビの一部始終を黙って眺めていたおまえが呟く

「弾きやすいだけじゃだめなのか…?」

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

なんて鈍感なの?

お姉ちゃま…子供の頃、私のお母様に言ったことを忘れたの?

 

「モーツァルトはあいつが好きなんだ」

「だから、ヴァイオリンが弾けないあいつの代わりに私が覚えて弾いてやるのだ」

「姉上、私がモーツァルトを弾くのはあいつのためだ」

「だから姉上はモーツァルトを覚えなくとも良い」

 

どうしてモーツァルトばかり弾くのか気になって

お母様がお姉ちゃまに聞いたことがあったのよ

 

「別に、私がモーツァルトを覚えたくて聞いたわけじゃないのに」

「あの子ったら急にムキになって…」

「何だか、私に焼きもちを焼いているみたいだったわ」

 

お母様が言っていた意味が私にも最近ようやく分かってきたの

 

本人を目の前にして

「私の肌に合う」とか「心が整理されていく」とか

まるで愛の告白をしてるみたいじゃないの

 

そんなこと言ってる本人も言われてる本人も気づいてないんじゃ

この二人はまだ暫くこのままね

 

「簡単に言えば、弾きやすい」

…お姉ちゃま…それは遠まわしに「扱いやすい」って言っているように

私には聞こえるわよ

 

でも、いつから友情が愛情に変わったのかしら…

それは姪としても興味があるところだわ

この休みが終わるまでにもっともっと観察しなくちゃ

 

まあ、お姉ちゃまはとても純粋だから

自分の気持ちに気づくのに時間がかかるのは無理もないわね

 

問題は…同じくらい鈍感な奴のほうだわ

 

身分違いの恋だからって二の足を踏んでいるのかしら

全く…これだから大人って…

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

おまえに話せないことがあると

私はなぜかモーツァルトを弾きたくなるのだ

 

初めてヴァイオリンを習った時

おまえはモーツァルトが聞きたいと言った

 

王室ともゆかりのある作曲家だ

年も近いからか私の曲覚えも良く馴染みやすかった

 

年頃になってから、おまえにさえも話せないことがあって

でも、おまえに聞いて欲しくて…

私はおまえにこの気持ちを聞いてもらう代わりにモーツァルトを弾いた

私が口にしないこともおまえには分かって欲しかったのだ

 

私の全てをおまえだけは無条件で受け止めて欲しかったのだ

 

私たちがまるで兄弟のような純粋な関係から

少し大人になったことで複雑な関係になっていたのにも係わらず

私は子供の頃のようにおまえに甘えたいばかりで

おまえとの関係を自分の都合の良いように解釈して

おまえの気持ちを完全に無視していた

 

だからおまえは私に罰を下した

 

…私が悪かったのだ…

 

正直、一度はおまえを憎んだ

 

いや…おまえを憎んだというよりも

感情を抑えきれずに私を犯した男という生き物を憎んだのかもしれない…

 

ただ私に思いのたけをぶつけてくるおまえに

私の心が追いつかない

 

おまえが男だということを

私に覚えこませようとしたこと

 

…なぜそんな方法でしか私に愛を伝えられなかったのか

 

これだけ長い間一緒にいたおまえの気持ちに気付かなかった私が悪かったのか

私への想いをこれほど一緒にいながらも私に気付かれなかったおまえが上手かったのか

 

どれだけ考えても私には分からなかった…

 

でも、一つだけ

 

おまえが私への想いを封じ込めて片時も離れずわたしの傍にいてくれたこと

おまえが影で私を助けてくれていたからこそ私は私でいられたのだということ

 

そのことだけは何がおきても変わらない真実だった

 

やはり、おまえの想いに気付いてやれなかった私の責任だ…

 

いつの日からかすれ違ってしまった私の心も身体も

また昔のように私の全てをおまえに預けられる日がくるのだろうか

 

あれからおまえは私に対して距離を置いている

いや…相変わらず傍にはいてくれている

何かあれば助けてもくれるし相談にも乗ってくれる

 

でも…何かが違う

 

私はおまえを求めすぎないように傍に置きながら

おまえがどこかへ行ってしまわないようにいつもおまえを見ている

 

そして、今の私はおまえの心が知りたくて

モーツァルトを奏でる

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

そんなつもりはなかった

 

あの貴公子と踊るためにおまえはドレスを着た

パリ中の美しい貴婦人を集めてもおまえには敵わない

あまりにも美しいその姿に俺だけでなくこの屋敷にいた人全てが息を飲んだ

 

おまえはあの貴公子におまえの全てを見せ

長い間秘めていた心を明かそうと思っているのだとばかり思っていた

 

そして、俺はおまえと貴公子のこれからを考えておまえを諦めようとした

 

そうだ…あの日までは何もかも上手くいくと思っていた

 

少しだけ開かれた扉

暗闇に佇むおまえは泣いているようだった

 

何がおきたのか分からなかった

ただ、あの貴公子との関係が永遠に終わってしまったかのように

おまえは打ちひしがれていた

 

感情が爆発した

 

おまえを泣かせる奴が許せなかった

 

何も考えずにおまえに感情をぶつける

頭の中が空っぽになった

 

気付いた時、俺はおまえを羽交い絞めにし

おまえを傷つけていた

 

本当にそんなつもりはなかったのだ

ただ、俺が俺自身を止めることができなかった

 

俺はその時おまえに誓った

「二度とこんなことはしない」と

 

おまえに拒絶されないように距離を置く

心も…身体も…

 

ただ、今はおまえの弾くモーツァルトを聞く時だけ

俺たちは昔の関係に戻れる気がする

 

愛も、恋も、嫉妬も

何もまだ知らなかったあの頃に…

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

私たちはまだ何も気付いていなかった

これからが始まりだということ

 

そして、本当の愛とは何かということに…